◉司会者長井(以下―長井) それでは二時になりましたのでこの展覧会最大の行事になりますシンポジウムを始めさせていただきます。九日間にわたりましたこの展覧会、実は三日間の搬入日がありますので12日間となりますね、その搬入日も大雨、大風が吹きまして波乱を思わせる出発だったのですが、いけばなとすればそんな条件の中での12日と言いますのは過酷な展覧会ではありましたけれど、反響というか主催者が想像していた以上の入場者を迎えることが出来たようで、そんなことも発表していただけたらと思います。
この作品展を軸にしましてこれまでのいけばなはどうだったのか?どう変わってきたのか、また、現在いけばなはどうなのか?どういう状況にあるのか?またこれからのいけばなはどう動いていったらいいのか?どう展開していけばいいのか、そういう課題を織り込みながら五人のパネラーの先生方と一緒に語り合っていきたいと思うのですが、今日は先生ですが「さん」ということで呼ばせていただきます。
こちらから美術界を代表して三頭谷さん、金澤さん、お二人はいけばな界がピンチになったときにあらわれるというか、檄を飛ばしてくれる先生方で、何かあると駆けつけてアドバイスをしてくれるスーパーマンで、このイベントでも相当なご協力をいただいていると思います。それから三人の実行委員の方をパネラーとして、まず今回の代表をしていただきました大塚さん、横浜地元の日向さん、紅一点で事務的なことをこなしていただいた伊藤さんです。
短い時間ですので流れとしましてはこれから大塚さんに今展の成り行きを説明していただいて、それから現代いけばなのこれまでの軌跡を三頭谷さんにレクチャーしていただき、そのあとで金澤さんから新しいいけばなの方向についてお話をしていただくといった段取りでいきたいと思います。
それから、いけばな界のレジェンドといいますか、スペシャルゲストパネラー下田(尚利)先生にも何かご意見をと考えています。皆さん忙しくて今日もぶっつけ本番なので、ご協力いただきながら話を進めていきたいと思います。それではまず大塚さん、この展覧会の成り行きをご説明ください。
◉大塚理司(以下―大塚) えー、まず私の方から何故ここでこのような会を催すようになったかという経緯をお話しさせていただきます。私がこのバンカートという会場に初めて来たのが10数年ほど前なのですが、横浜トリエンナーレを見に来た時に此の会場を見て大変衝撃を受けまして、漠然となんですけどここでいけばなが出来たらいいなあと思った次第です。
今日、皆さんご覧になっていただいたと思うのですけど、いけばなでこのサイズ、この規模の作品を展示するというのは前例のなかったことですし、私も実際できるのかな?なんてダラダラと日々を過ごしていたわけなのですが、具体的に申しますと2015年の越後妻有アートトリエンナーレの時に清津倉庫美術館という新しい展示施設がオープンしたのですが、そこを見た時に、何せ体育館を改装したところですのでここよりも天井は高いですし、展示作品もだだっ広い中に4点しかないという大変大胆な展示方法だったのです。でも、それを見た時に何かこれならいけばなでもできるんじゃない?と思ってしまったのです。それは私の多分すごい大きな勘違いだったような気がするのですが、これならいけそうな気がすると何故か思ってしまったのですね。で、帰ってきてバンカートでやりたいという気持ちが高まってきて、その年の冬でしょうか、たまたま愛知県に行く用がありまして三頭谷先生を名古屋まで呼び出しまして、実はこんなことを思っているのだけれど如何でしょうか?という話をしましたら、三頭谷先生から、今のいけばな界はゼロなのだから何でもやりたいことやればいいじゃないか、みたいなニュアンスのことを言われたのです。それが果たしてアドバイスとなっているのか私もわからないのですが、ふと背中を押されたような気がいたしまして、そこで前々から展覧会をやりたいとおっしゃっていた伊藤先生、日向先生とお会いしたのが昨年の2月です。そこで実はこうこう、こんなわけなのだけど、とお話ししたところ、よしやろう!と賛同していただくことになりまして、そこがスタートです。それから1年ちょっとの期間があったのですが、あとはもうしっちゃかめっちゃかてんやわんやで、なにせ私たち、展覧会のプロデュースなど素人ですが、私達3人の他に関西から肥原先生、今日司会していただいている長井先生、後ろで記録を取ってらっしゃる千羽先生、この6人で実行委員を立ち上げて、事務的なことなど、最も苦手とするようなことを分担してやってきました。私の勘違いを皆さんでフォローしていただいて実現してくださった実行委員の皆さん方、また賛同してご出品していただいた先生方には大変感謝しております。以上がこの展覧会が始まるまでの経緯です。
あと、まず皆さん、なんでこのような展覧会をやったのだと思われているかと思います。この会の趣旨といいますか、「現代いけばな」これはもう1970年代~80年代頃から使われている言葉なので、私たちのこの作品展示を果たしてなんと呼んでいいのかわからないのですが、まあ今までの流れでやはり「現代いけばな」という言葉を使わせていただきます。
「現代いけばな」というのは、これは後ほど三頭谷さんが語ってくれると思いますが、70年代、80年代頃に大変盛り上がっていた時期があるわけです。それが90年代から2000年に入ってだいぶ失速してきたわけです。そんな中で、下田先生を中心として活動していたFの会が主催団体となって、同じ横浜の新都市ホールというところで約30名の仲間を集めて展覧会をやりました。それからもう17年が経っているんです。その間、大規模なイベントが、語弊があるかもしれませんがまったく無かった。これはやはりね、いけばなにとって大変な喪失だと思う。
こういういけばながあるんだということを提示していかなくてはならないと。また、もうひとつはオギャーと産まれた子が17歳、今の若い方々が「現代いけばな」を見ていない。知らない、そういった世代がぼちぼち華道界に出始めている。これに対して大変な危機感をもちまして、これはもう絶対にこれからの世代に伝えていかなくてはならない。今私たちがやらなくては私たちの世代の怠慢で諸先輩、先達の築き上げてきたものが台無しになってしまう、といったこともありまして、思い切ってここでやらせていただいた。目的としては「現代いけばな」を提示していかなくてはならない、今の若い人に是非引き継いでいっていただきたいという危機感からスタートしたということでございます。以上です。
◉長井 お話を伺っていまして、あそうだ、この、前の三人のパネラーの方々からこの仕事が始まったんだなという事がなんとなく伝わりました。で、この呼び寄せに、ここにいる肥原先生、そして千羽先生、集まった顔ぶれからしてイベント下手というかイベントなれしていない私たちですから、そんな中でこちらにいる松田先生から非常に鋭いアドバイスをいただいたことが心に残っています。
また大坪さんもサイドから辛辣なアドバイスを送ってくれた先生で、大坪さんの作品が無いのが本当に残念で、そんな成り行きを伝えてきたわけです、で、ここで三頭谷さんから「これまでのいけばな」の軌跡のレクチャーを受けられたらと思います。よろしくお願いします。
◉三頭谷鷹史(以下―三頭谷) 僕は愛知県の犬山市というところに住んでいまして、さきほど大塚先生より話があったように急に電話があって呼び出されて相談されたことは覚えていますが、何を話したかは覚えていなくて、とにかくしっちゃかめっちゃかですね、確かに。今日お話しするこれまでのいけばなの軌跡というのも数日前に15分くらい電話があって今日話すのですが、ただし、時間は15分だということで大ざっぱな話になりますが、フリートークの参考になればということでお話します。
まず、戦後のいけばなには前衛運動があったということです。さきほどは「現代いけばな」という言葉があったけれど、元を正せばアバンギャルドがあったということがこの分野を面白くしていった。明治時代の百科事典みたいなものを調べると、お茶、お花、お香の三つは同じような感じで載っています。他は前衛運動があったということは聞きません。ですからいけばなは伝統文化といわれながらも大変特殊な物をかかえているということを頭に入れておくと今日の話につながるかと思います。
前衛運動がはっきり表に現れのたがいつかというと、1950年代が前衛いけばなの時代と言っていいかと思います。それは何だと言われたら1951年の「三巨匠展」が一番象徴的だと思いますが、勅使河原蒼風、中山文甫、小原豊雲があたらしいものをはっきりと打ち出していった。これを家元達が前衛をやったという不思議な現象が起きていったのですね。ある意味非常に騒がしくなった。そしてその内容も蒼風はある時期新造形という言葉を用いましたが、非常に彫刻寄りで、石や鉄などを素材とする物が出てきまして、世間からするとこれがいけばなか?という反応。伝統文化が何故そのようなことなのか、おかしいという疑いの目を向けるようになって、 またそれだけではなくて東横展というコンクールもあって、それも造形色が強くてオブジェばかりといった動きがあって、いけばな界全体が大きくそういう傾向に作風が変わっていった。それが一つあります。
それだけではありません。それは中心部で起きていますが、 隣接する分野で起きたのが重森三玲という庭園研究家、いけばなの研究者でもあり批評家でもあった人が主宰した「いけばな芸術」という雑誌がほぼこの時期に発行されていて、中心部では無いですが周辺のところで非常に活発な動きをしている。そこから中川幸夫さん、半田唄子さんがでてきたといういきさつがあります。そこはまた独自の動きをしていまして前衛運動の大きな拠点と言ってよいかと思います。僕は動きが三つあったと思っていますが、ここにいる下田さんが主催者でもありますが、新世代集団というもので、工藤昌伸さん、下田さん、勅使河原宏さん、重森弘淹さんという、出発当時は皆さん20代ですね、確か。こういった若い世代が前衛運動を展開している。ただしこの場合は内容的にその時代に闘争していたこともあって、社会そのものを変革していこうという意識もあり、テーマ性いけばなという社会主義的な傾向も強いものであると同時に大半の者がいけばな界の重鎮の息子世代。だから二世集団とも言われたのですが、いけばな界内部にありながらそれを批判するといった自己否定的な側面を持つといった、ちょっと特殊な運動がありました。それらが僕の見方からすれば前衛いけばなの三つの動きといえるのでは無いか。まあ一つは造形的いけばな、さらに中川幸夫独特のもの、それから社会主義的な運動という側面を持ったもの、それらが混然一体として互いにそれぞれの夢をもって動いた時代、それが1950年代の前衛いけばなの時代。
それが急激に変化します。1960年代になると伝統回帰の時代です。それを代表するのが1960年に行われた池坊の「王朝文化のいけばな展」。これは伝統的な花を重視しようと、素材も植物を重視しようという傾向が現れていきます。このあたりから従来的ないけばなをもう少し見直そうという動きが強くなっていきますが、じゃあ造形いけばなはどうなったかといえば、僕の見方をすると消滅はしていません。急激に変わりましたけれど、消滅はしていません。というのは、蒼風さん豊雲さんあたりはもう海外への展開みたいのがあって、ちょっと分離した動きをしています。若い世代というのは雑然としている。中川幸夫とかその辺は完全に個人的な動きをしていて、大きな山場は無くなりましたがそれぞれ継続して進んでいく。で、前衛いけばなというのは大きな流派の中でレパートリーの一つとして温存されていったのではないか。そういう意味では流派としては膨らみを持つといった形で60年代は展開していったような見方をしています。
ただまあ、運動としては無風状態みたいなようになっていましたね。それから次の70年代、最近は80年代までを含めて僕は見ていますけれど、現代いけばなの時代、この時代は『現代いけばな懇話会』が1960年に結成されていますけど、家元も含め副家元とかそれ以外の人たち個人個人がここに自分たちの活動を出してくる時代。70年代最初はグループ活動として出てきます。この辺あたりの人、長井さんや大坪さんあたりがやっているし、それぞれの流派から出てグループとして活発に動き始めている。そして70年代から80年代になると美術画廊なんかで個人というか個展をやる時代になってくる。細かくいうといろいろありますが「八人の会」とかそれから発展して 公募展というのが生まれてきたという流れがあります。
この特色としては特に80年代は女性の活動が活発になってきました。伊藤さんあたりがそうかな。
◉伊藤庭花(以下―伊藤) いえ、まだその頃はよちよちです。
◉三頭谷 まだまだこのあたり、いっぱいいます。とにかく女性は80年代です。また、特色としてはフラワーデザインから松田隆作が登場し、最近はいけばな作家に転向しているという話ですけど、ともかくいけばな界の外からも貴重な人が乱入してきたという、この他にもフラワー関係から今展にも3人公募の方から出てきていますから、また時代が変わってきている。ともかく、この70年代から80年代になって「個人」というものが非常に表立っていてグループ活動や個展とかが活発に行われるようになったというように、明らかに変わってきているのです。
ところが、90年代~2000年をどう呼ぶか。僕はもう「現代いけばな」とはいいません。「失われた20年」と呼んでいます。この時代を改めて考えてみると、大変な時代なのですね。多くの方々が感じているようにこの時代はバブルがはじけて、いけばな界もやっぱり人口減少が起きてきているというのが大体90年代からこの00年代というように見ることが出来ます。
ただこの時代を踏ん張ったのが「Fの会」。「Fの会」というのはものすごい結集なのですよ。前衛時代の下田さんから吉村隆さん、現代いけばなの千羽さんのお父さんとか大坪さんとか、大塚さんとかの若い世代、さまざまな経歴の人が結集したのです。何故結集したのかっていえば、失われた20年の時代というこの時期を乗り越えなくてはならないという思いがどこか無意識のうちにあったのではないかという気もします。
で、ほぼこの時代は「Fの会」を中心にいろんな企画がなされ、横浜でしたかね「いけばなから‘99」は。それか外に向かってやったので画期的だったのが「大地の芸術祭」。北川フラムさんがやったやつで、これは2回、3回くらいやったのかな?実に大きな仕事をされていますが、これは「失われた20年」の時代の特色なのだろうと、結束しなければこの時代はちょっとやりにくかったのであろうと。で、今の時代につながっていると。
こうしてみると流れは確実になって、世間を騒がせた造形いけばなの時代から、当然ながら前衛的な動きがありながら、それに対するいや、それだけでは無いぞ、流派の伝統的な花もやらにゃあかんよという反動というか、逆の力が働き、両方が緊張し合う中でもうちょっと若い世代も含めて個人が徐々に出てこなくてはならないとなるのが自然なのですね。当然女性も出てくる。当たり前ですよね、女性が大半ですからね、近代いけばなは出てこない方がおかしい。で、今回の展覧会を見ていても女性が段々増えてきている。この手の展覧会というのは、本来は何だかんだ言いながら男社会なのですよ。公募をやったせいで女性が増えたともいえますし、まあ時代の流れはじわじわとやってきます。
もうひとつ言わせてもらえばこういう新しい運動といけばな界本体との関係に僕は興味があるのですが、50年代は家元そのものが動いたから当然ながらいけばな界の中心部で動いているわけですよ。いけばな界との関係は密着状態ですよね。60年代というのはさっき言ったように、前衛運動の一部は崩壊し、家元達の前衛運動は個人そのもので流派とは分離しちゃっていたから無風状態になり、ある意味いけばな界との関係は薄くなったんですね。それに対して70~80年代は一定の関係を保つように戻っていった。
多分ね、この個人活動を始めた人たちは、外でやっていても結局は流派に戻りますから流派はそれを吸収するといったことが70~80年代まではあったのだと。流派として活性化の材料とした時代があったのだと。しかし問題は、90年代以降の前衛運動はどうもいけばな界との関係が薄くなって別物になってしまって、あまり流派自身も吸収しなくなった時代が90年代以降は起きていたのではないか。流派の活性化を鈍らせ、つながらなくなってきちゃった。
歴史を振り返ったがためにそういうことを考えちゃったのですが、まあ以上です。
◉長井 ありがとうございます。個人的にはものすごくわかりやすくて、近代現代のいけばなはこうやって運動してきたのだなあと痛切に感じました。
まあ日本という広さから言うと関東中心かな?という感じはありますけど、いずれにしても前衛から東横展、新世代集団、いけばなを食う会というのもありました。それから公募展が展開され、それに反して伝統いけばなが復活し、話には出ませんでしたけれど、グループ展の活性化というのですか?流儀が持っているグループ集団の現代いけばなへのアプローチというのはすごくあったのですよね。そういうのに刺激された個人が芽生えてきた時代でもあったのですけど、今話にもあった八人の会、この集団が1980年代に開いた「いけばな美術館」、これは歴史の中の大きなメモリアルになるんじゃないかと思いますが、今回の展覧会はそれに匹敵する歴史になるのかなと、お話を聞きながらそんなことを思いました。で、この全てにですね、携わってきた下田先生がいらっしゃるのですが、下田先生、ちょっと一言お願いいたします。
◉下田尚利 まあ三頭谷さんの話を聞いていて非常に良くまとまっているなとは思うのだけど、確かに僕も現代いけばなっていうのは89年くらいで終わったのだろうと、まあ昭和天皇が死んで戦争責任そのままにして多くの人たちが死んでいったっていう、そういうことがあって戦後っていうのはあそこで終わっている。
その辺のところはよくわかるのだけど、じゃあその後何が起こったかっていうと、我々は「Fの会」とかいろいろやってきたけど、まあ結局のところ、段々段々流派に吸収されていったというか、流派いけばなの比重が非常に大きくなっていっちゃっている感じがするけどね。個人のいけばなというのが取り残されたというか、意識が弱くなったというのか、失礼な話だけれど、この「新いけばな主義」のパンフレットを見ても流派の名前がついているよね。そういう意識っていうのは流派を背負ったままの自分が仕事をしているのだっていう意識が強いんじゃないのかね?個人意識がなくなっているのではないかと思う。我々が流派を超えたグループ活動をしようという時は流派の名前は必ず外したものだけどさ、それがここでは完全に復活している。流派の人間として参加しているという感じがどうもする。だから良くないっていうわけじゃ無いよ、俺たちはどうせ流派のいけばなで食っているんだから。
ただ流派の名前を外したからって個人になるわけじゃないけど、でも意識のどこかでそういうものが強くなっていって個人っていうものが消えていっているんじゃないかな?
◉長井 ありがとうございます。今伺った問題ですけど、これは実行委員の中でもそうとう・・。揉めはしなかったけれど、流れでこうなったんです。私は反対した方なんです。(笑)これから続くようでしたなら次回の課題になると思うのですけど。流名を背負って作品をやるのか個でやるのかという問題提起がこれからなされると思います。
ところで、皆さんに訊いてみたいのですけれど。今お話に出ました前衛いけばな時代、『東横展』時代を知っているという方は挙手願います。(ほとんどいない)出品したっていう方がいたらすごいですけれど。(笑)
『東横展』って何?っていう時代だと思うのですよ。『公募展』はご存じですよね。知らないっていう方います?ああ、ぱらぱらですけどね。知っている方は体験して出品してきた方もたくさんいると思うのですが、現代も続いているイベントですのでそういう気持ちがある方は参戦していただきたいと思うのですが。
これから現代いけばなをフリートーク的に展開していきたいのですが、作家の立場から現代いけばなの現状なり反省なり・・。
◉大塚 最初に申し上げたようにこれが現代いけばなですっていうジャンルが極めて曖昧なものですから、今下田先生が仰ったように、極めて個人的な活動なので・・。
私がこの会を立ち上げたときにその趣旨の中に、今のいけばな界は大変な時代を迎えていて、現代いけばな自体もなんだか目映いようなものが無くなっていって、そんな状況だけれども熱意ある者がかろうじて引き継いでいる。やはり今、もう一度改めて知らしめるようなことをしたいというような文言を書いた覚えがあります。やはり個人的な活動なので流派がそのフォローや保証をしてくれるわけではありませんし、個人の熱意だけでかろうじて保っている。これを機会にまた若い方がどんどん参加してくれたらいいなと思っています。
◉長井 三階の会場を見ていただいておわかりだろうと思いますが、ダイナミックないけばな、それを代表するのが日向先生。日向先生が登場してきたときは大変衝撃的な人が現れてきたという感じでありましたけれど、それをずっと維持されて今回もダイナミックな作品を出されていますけれど、日向さん、何か・・。
◉日向洋一(以下―日向)
先ほどの「東横展」の話。私がまだ小学生だった頃の話ですね。私の父が渋谷の東横デパートにお花を生けに行くので、当時は車も無かったもので、私は荷物持ちで動員されて訳もわからずついて行ったのを記憶しております。
そんな時代から私はお花の現場のすぐそばにいたわけですが、私は大きな流派に所属していて、流派外の活躍というか、大きな仕事というのは非常にちょっと怖い家元がおりまして・・・そういうわけで出来なかったのですが、まあ思い切ってやってみようと思いまして、当時は長井さんとか大坪さんとかキラキラ光るような存在でしてね。私は当時の龍生会館に大坪さんを訪ねまして、どうやったら個展が出来るかっていうのを質問しました。いろんな事を教えてくれたのですけど、今でも記憶に残っているのが、スタートが20年遅いねって。当時の神田の真木画廊というのが、大坪さんが使って以来いけばなの世界の人が連続的に使っていたのですけど、そこにデビューするのが20年遅いと言われたことが非常に記憶に残っております。その後も流内からはあまりうるさく言われないなっていう状況がありましたのでマイペースでやっているのですが、私の中では現代いけばななんて言葉は一年に一度くらいしか使っていませんし、普段やっていることが自分の花だと思っていますし、さほど変わったこともしていないし、チャンネルを変えたっていう意図は無い。流れが途切れた感じにならないように話しました。じゃあね、そのころある流派で光り輝くね、この流派にいてこんな自由なことをやっている人がいるんだなって思っていたのが、お隣の・・。(笑)
◉伊藤 えー、伊藤庭花です。私は「東横展」は見たことはありません。
師匠が東横展で賞をとったという話を聞いてすごいんだなあってことが記憶に残っているくらいです。一番衝撃的だったのが1980年代の「いけばな美術館」です。
長井先生の屋台とか衝撃的でしたね、そのほか裸で突然寝る稲垣さんとか、たくさん頭には残っていますけれど、これがいけばななんだなと思いました。
それで神田の真木画廊で大坪先生にお会いして、私なんかに個展ができるのでしょうか?みたいなことを私は訊いたのですね、そうしたら大坪先生はすぐにでもやればいい、と。最初はひどいほどいいって仰る。最初がひどければ二回目がよくなるからと。この言葉が忘れられなくて、とにかくやればいいんだという気持ちになれたのが、大坪先生が大好きなゆえんです。
考えてみれば、私は流派に助けられて展覧会をやってきました。15年間小原流会館のエスパスというところで、ほぼ個展状態で二人展をやらせていただいていたのですけれど、最初はお金を払っていました、途中からは企画にしてもらいましたけれども、内容は全部自分たちがやりたいことをやりました。で、今三頭谷先生のお話を伺っていたら、それは「失われた20年」の間だったんだと思いました。(笑)その20年の間で越後妻有も「Fの会」に呼ばれて体験させていただいたりもしましたので、私としたらいけばな美術館を見てからの時間がずーっと繋がっていて、今度の「新いけばな主義」をやるにあたって若い家元、副家元達に一緒にやりましょうよって言ったら、先生、現代いけばなって何ですか?僕たち見たことありません、私たち知りませんっていうのを聞いて愕然としました。越後妻有知らないの?新都市ホール知らないの?本当に知らない世代なんだと思ってこれは絶対やらなきゃいけないと。今日はやってよかったと思っております。
◉長井 伊藤さんは現代で一番怖い女なんです。戦う女なんです。花いけバトルというのがあるのですけどね、そこの女王なんです。あの笑みの底にちょっと怖いものがあるので、私はバトルには出ないんです。出たら食われそうで・・。(笑)
で、伊藤さんが刺激を受けたって言ういけばな美術館、1980年なのですけど、見たっていう方おりますか?
少ないですよね?これが現実ですよね。それからグループ展活動があり、空白の時代が生まれたっていうレクチャーを受けたのですけど・・。
◉日向 ちょっといい?「いけばな美術館」というのは公募展だったのですよね。ただし長井さん達のような先輩が人選していたのですよね。そして残りの枠があって、私はある人から公募で凄い展覧会をやるけどまだ席がいくつかあるって聞いて応募したらどうだという声があって、初めてそれに出してびっくり仰天、とにかく驚きました。そのときに一緒にいたのが松田さんでしたね。松田さんもそのときに鮮烈なデビューをしたという感じが今も残っております。
◉松田隆作(以下―松田) いけばな展に初めて出させていただきました。
◉長井 えー、ここまで現代いけばなの軌跡をレクチャーさせていただきましたけれども、皆さん何か訊いてみたいことありますでしょうか?
いけばな界の大きな変革のひとつに剣山が出来たっていうのがあるのですが、いつだかわかりますか?突然ですけれども、変革のひとつでもあるのですよ。
◉日向 私たちのところではですね、前は剣山が絶対必要だって、剣山が足りなくなっちゃってもっとありませんかって生徒さん達に言われたのですけど、最近の教室では誰も剣山を使わなくなって、剣山の箱はいつも乾燥してるっていう。使う人は仲間ではあまりいないので、剣山は過去のものになってしまったなって、余談ですが。
◉長井 文献ではですね、明治41年1908年、安達式の安達潮花さんが発明したと、文献ではなっていますね。
それがいけばな界の表現の道具としてね、現在も存在するわけで、道具からも変革は起きていくわけです。
そんなことを踏まえながらいけばな美術館を体験した一人として、松田さん、一言。
◉松田 私は本当にフラワーデザインしかわからなくて、チラシ見て申し込んで初めてのいけばな界デビューが80年の「いけばな美術館」だったので、それ以降いろんな方と知り合えて今の自分があるという。で、三頭谷さんが「失われた20年」と言うのだけれど、僕は毎年個展をやって来ましたし、個人主義なのだけれど、逆に他の方がなんでやらないのだろうという疑問の方が大きかったです。何故やめちゃったの?みんな。
お金無いのは僕も同じだし、なんでみんな一緒にやってくれないんだろうって。先輩達のおかげでいろんなところに呼んでいただきましたし、声をかけていただきましたけれど本当に個人主義でやらせていただきました。みんなにやっていただきたいですけどね。
◉長井 今お話しいただいたように「いけばな美術館」は公募というものを取り入れた最初の方なのかもしれません。それでいけばな界とは違ったジャンルから作家が現れてきたんです。で、今回も公募という形式をとりました。そのへんの経緯とか説明いただけますか?
◉大塚 まずはこの会場の広さをどうしようかと、ざっくりと会場割りをしたら30、ちょうど30人がリミットだなというところから始まりました。そしてこれからの世代に伝えていくという意味では、できるだけ若い方に参加していただく、ということで、ある程度実行委員の方でも推薦作家的な意味でお声掛けした方もいらっしゃるのですが、そんな中でも比較的若い方を選ばせていただきました。そして後は公募する事で、応募してきた人の中から次代を担っていただけるような方を、横柄な言い方ですが選ばせていただきました。
◉長井 実行委員の方から公募の公示をさせていただいたのですが、実際に作品が来るのかどうか、不安な日を追っていたのですが、ただ日を追って反応が良くなってこんな作品が来たこんな作品も来たってね、刺激になる作家が生まれるのでは無いかと。で、不公平感といえば公募作品には賞金出たということですね。我々には出なかった。で、これは展示の仕方にも問題があったのかもしれませんが、私の作品を見た方から、「あ、落選したんですね」って。(笑)
表示の仕方を考えてもらいたかったなって。こういうイベントにおいて賞金を出すというのは画期的な発想であった訳なのですけど、そうしなくてはならないという現況であったという事で。
えー、これからどのような展開でこのようなイベントを続けていくか、また、ここから若い方を巣立たせていく場を作っていくかということは重要だと思うので、これからのことを金澤さんに語っていただきたいのですが、イベント下手の私たちにとって金澤さんの会議でのアドバイスが指針となり、とても重要なアドバイスでこのイベントが開かれたと思うのですが、その感謝の意も込めてこれからについて語っていただけますか?
◉金澤毅(以下―金澤) それではまず、私が今回の企画に関わったきっかけが大坪さんでした。大坪さんが私のいた美術館の招待作家として出品したことが一度、80年代半ばにありまして、その中で数ある美術家の中で唯一いけばな出身であることは知っていましたが、見た作品はですね、これがいけばなか!というくらいに現代的な表現だったのです。つまりいけばなは見方を変えればいくらでも現代美術に限り無く近づいてくることが出来る表現だということが私はよくわかったわけです。大坪さんはいけばな界と美術界との間を取り持つような存在で、東京の画廊などにも出入りしていましたし、その後の美術界でも発表もしておりました。
そしてまた今回もいけばな作家がこういう新しい企画をするから手伝ってくれと言われて私も参加したわけですが、その肝心の大坪さんが途中から姿を消したものですからちょっと残念に思っております。
ええ、実は私がいけばなと関わり始めたのは1969年の終わりから79年の終わりにかけての10年間です。その頃日本は海外から持ってくる芸術文化ばかりで外に出すことを1度もしなかったのですね。それでたった一つ出来上がった団体が、私が所属していた国際芸術見本市協会というところで、大した見本市ではありませんが唯一海外に芸術作品を持ち出して展示し紹介するという。
その時は伝統芸術も入れるという事になりましてですね、 それを10年くらい続けて60以上の大都市ばかりを巡回しておりました。大都市ですからもちろんニューヨークをはじめとする世界中の大都市が入っております。ベルリンは入っておりませんが、その時に日本の伝統芸術として選ばれたのは、いけばな、茶の湯、書です。
その時の書とはですね、文字をきれいに書くというものではなく、むしろ現代書という最先端の前衛書というものが多かったのですね。タイアップした団体は、最初は「毎日書道展」です。書も伝統美術ですから社中というものがあるわけです。
そしてそれぞれの先生が自分の社中を持って一つの流派を持っています。流派と言ってもそれほど目立つ差があるわけではありませんが、彼らはともかく文字を一つの材料として、表現は文字性から離れるといったものが多かったですね。あくまでも文字を見せる人もいましたが、しかし文字から離れるという事、つまり文字を読ませることでは無く文字を材料として表現の世界を広げていくのだというのが彼らの趣旨だったのですね。
それからもう一つはいけばなで、日本いけばな芸術協会というところがタイアップして、そこの理事長だった勅使河原蒼風さんが大変海外へのいけばなの紹介に熱心だったのですね。年に三、四回いろいろなグループを海外に紹介して、その人達をつれていったわけです。
ほとんどの方々は海外に出て行って生け花の展示と実演を両方見せるのですが、それは装飾性、伝統性が強いものでした。しかし後になるといけばなというのは、見方を変えれば、またはやり方を変えれば今日のインスタレーションという表現と繋がっていくわけなのですよね。ここのところに私はいけばなの芸術性というものを確認したわけです。
いけばなと茶の湯と現代書の三つがありましたが、そのなかの茶の湯は芸術性が薄いのですよね。これはやはり伝統性とかしきたり、様式が尊重されて一つの型にはまった作法です。よく見れば江戸時代からあの世界があったというのは素晴らしいことだと思うのですが、これは今回省きましてね、伝統芸術の中に実は今日に繋がる芸術表現というのが、書といけばなだったのだということが私にとって大変大きな発見でした。
それとこのいけばなをもっともっと発展し現代美術に近づいていってもらいたいと思っているのですが、やり方を少し変えれば可能なのですね。ですが一旦この世界に入ってしまいますと中々抜け出られなくなって、先ほどの話にもありましたが流派の名前を背負ってしまうのですね。そうすると大きな屋根の中に入って安心して行動が出来るわけですが、自分の名前で発表するとなるとリスクを背負う訳です。最後は責任を問われるのです。
そこは他の芸術家と全く同じなのですが、ここでいけばなが発展するためには少し冷たい風に当たる覚悟を持つことも必要ではと思います。また、いけばなは建築家と組むことが必要ではないかと思うのです。今日の建築というのはただ壁と屋根を作るだけでは無く、一つの時代の表現として見事なものを作ります。いけばなは外側では無くて中の方のインテリアで協力することが出来るのではないかと私は思ったわけです。日本には庭園文化というものもあって外側にも広がっていくことが出来ます。
しかし一個人で造形するいけばなはむしろ中の方が安定してしかも長い時間耐えられるということで、インテリアデザイナーや建築家と組んで建築空間の中で新しい出番を作っていただきたいと望んでおります。
もうひとつ、二番目は他のジャンルの芸術表現と組むことです。今日は境界を越えて越境しながら表現を広げていくのが流行っております。例えば、版画家は写真の世界に入ったり、または写真が絵画の世界に入ったり、そういう風にしてジャンルを超えて表現というのは広がっていっているわけです。いけばなだってそれは出来ると思います。いけばなは彫刻の世界で生きることが出来ますね。ですから今回の公募などもいい機会だと思います。が、それにとどまらず美術界の大きなインスタレーションの出番、それはビエンナーレとかトリエンナーレとか世界中から集まってくるのですが、その中にいけばなによく似た表現をする人たちがいるのです。皆さん方はご存じないとは思いますが、イタリアにジョゼップ・ペノーネという彫刻家がおりますが、このペノーネという方の作品はここにあるいけばなとよく似ております。彼はよく植物素材を使って床の上に大きな造形作品を作ります。これは私の目から見たら、ああこれこそがいけばななのだなあと。それに日本だってそれに負けない表現力を持った方がいるわけですから、私はそちらの方で戦ってもらいたいなあと常々思っております。
違ったジャンルとの共同作業、美術界との共存、いけばなも芸術だという自覚を持てば堂々と美術界に入ってゆけます。美術界は公募展をよくやっています。
美術雑誌に毎回全国の何処かで公募展を、まあ絵画が多いのですが、彫刻もある。インスタレーションもある。そちらの方に怖がらずに入ってもらいたいなあというのが私の気持ちでございます。最後に、この機会だから言わせていただきますが、この展覧会は苦労の末にここまで立ち上げたのですから、第2回、3回と継続していってもらいたいというのが私の気持ちです。2回目は1回目より良くなるでしょう。経済的にも空間的にも時間的にもよりすぐれたものになると思います。というのは1回目の経験が生きるからですね。それからここで信用をつければここにお金を出してくれる方も増えてくるかもしれない。なんといっても財政面の問題を解決するというのが最大の問題ですから、そこで一安心しながら前進するということですね。これが絶対必要ですね。それからもう一つ、欲を申せば2回目からですね、一人特別招待者という枠を用意されてはいかがかなと思うのです。関西地区の大物の作家であるとかですね、いけばなインターナショナルから外国の作家を呼んでくるとかですね。または美術界から彫刻作家で植物素材を使っている方、これはたくさんいるのですが、その中からとか、大きな刺激を与えてもらうために一人で良いからですね、外部からの特別招待者というのを入れていただく。
このようなことをしますと企画がさらに良くなっていくのでは無いかという勝手な願いを言わせていただきます。
◉長井 ありがとうございます。いくつかの提言をいただきました。建築家とタイアップしろと、他ジャンルとのコラボレーションに取り組めと、また美術界へのアプローチ、共存をしていけと。それから第2回、3回展への標榜ですね、もしあるのでしたら、ということですね。これは最後に訊きたいのですけどね、第2回目が必要かどうかってね。心に残る提言だとは思いますが、皆さんの方で何か今のいけばな界は明るいって思っている方・・・、2、3人ですか。いけばな界は暗いぞと思う方・・・、7、8人ですかね?手を上げない方はなんでしょうね?お手上げ状態、ですかね?まあ日本のいいところですよね?訊かれても答えないっていう。これは私ごとですけれども痛感したのが東京ドームの蘭展の審査員、千羽先生もそうですよね。
これが前の方で手を上げた人に合わせちゃうんですよね。10人でやっていて、前の人が5、6人上げちゃうと釣られて一緒に上げちゃうとかそういうところが日本人にはあるんですよね。まあ自分が思ったところがあったらパッと言っていただけたら嬉しいのですけれど・・、どうですか?今まで前衛いけばなとか現代いけばなとか、そういうのを見て心に残る展覧会とか、この作品は良かったぞとか発表できる方ありますか?
◉聴講者【外国の方】
本当、私凄くうれしい。5年前に日本人になった。日本に来てから39年、いけばなやってなんで日本人、自分の凄いところはもっとやってほしい。今日は非常に満足しました。もっとやってもらいたい。すばらしい。(拍手)
◉長井 外国からの方でしたけど、いけばな界に外国の方が登場するのはアイアイ、いけばなインターナショナルの出現ですよね。これは1956年、昭和31年、そのころは一番活気に溢れていた。それからすぐ日本いけばな芸術協会という一番大きな団体も出来ましたものね。
あとはいろいろあるのですけれど一番難しいのが現状としてメディア戦略ですよね。バラエティ化は目にしますけどね、それまではいけばなはブラウン管、というかメディアには登場しなかったですからね。前はたとえばNHKの婦人百科とかでいけばなは教養講座として出ていたのですけど、バッタリと姿を消したり、これはもっとメディアとの関わりが深まればもっと明るい方向へ向かうのではないかと思うのですけど。あと、これは司会者が言うことじゃないのかもしれないですけど、やっぱり評論家ですよね。評論家の三頭谷先生?
◉三頭谷 は?
◉長井 失われたいけばな時代とかありますけれども、作家が育つのもポシャルのも評論家の言葉次第ですよ。だから作家は評論家が嫌いですよね。何勝手なこと言ってやがんだ・・ものを作った人からするとね。いけばなが隆盛だった時代は評論家がいっぱいいました。あの人のはこうだ、とか、そういうのが刺激となって作家が個人で育ってくるのですよ。私も評論家の方から受けたたった一言で道を誤っていけばなに来たのですから。
で、今いけばなの評論家というのは三頭谷さんでしょ、だからいけばながよくなるのも悪くなるのも三頭谷さんのことば次第なのですよ。とても大きいと思います。で、それに代わることをしているのが大坪さんなのですよね。大坪さんは作家を褒めるのがとても上手いのですよ。大坪さんに励まされたとかアドバイスされたとかいう方がいっぱいいるんですよ、日本には。評論家がいい加減な批評をして作家がこけるんですよ。いけばな界全体を活気づけないと意味の無い慣習で、そういう評論家が不足しているときに大坪さんが活躍されているんですよ。明日のいけばなを語るときには欠かせないのですよ。作家は間違えたり、自己主張で走りますんで、そのブレーキなりアクセルをふかしてくれるのが外部の言葉なので、その適切さがいけばな界をよくしていくと思いますので、まあ三頭谷さんが頑張ってくれるようにどうか拍手を。(拍手の嵐)
◉三頭谷 評論家がそんなに役に立つとは思いませんけど、今、日本女性新聞で「女たちのいけばな」というのを連載でやっております。女性の側から見たらいけばなというのはどうなのだろうって、もう二年くらい連載が続いて、自分としては新発見をしております。元々これを始めた動機というのが、いけばな史を見たときに元々は男達から始まって、男が中心だったいけばなという文化が、近代に入ってからというのは明らかに女性が中心の文化ですよね。ところが女性のことは案外書かれていない。あるいは女性のことはあまり表立って書かれていない。ん?と思って、じゃあ女性から見ていくとどうかっていうことを書いてみると非常に面白いところが見えてきて、連載で夢中になって書いて長くなっちゃいましたが、今回の展覧会を見てもやはり女性のパワーの大きさを凄く感じましたし、これは「失われた20年」を過ぎましてもどんどん、どんどん力をつけてきています。他に例を挙げても美術界においても女性が出てきていますし、学芸員もほとんど女性になりました。館長はまだ男が勤めていますが、それもどっちみち追い出されますから。女性館長が次から次へと出てくるでしょう。色んなところでそうなってくるので、政治家も凄いですから、いいも悪いも怖い人いっぱいいますから。そのパワーは間違いないもので、そこが物事を決めていくといった時代になるでしょう。
もう、ここ(司会)に立つのも男はだめ。次回やるとしたら実行委員も半分は女、そうなってきて当たり前で、それがむしろ普通になると思います。そういう変化を通していって物事は決まるもので、そういうところを通さないと無理だという未来を僕は思い浮かべています。それと未来と言うことでいいますと、ちょっと問題発言をします。いけばな人口が減少していることは明らかです。
で、流派の存在自体もちょっと怪しくなる。まあ僕は家元制度も反対派の方だし、気味が悪いこともいっぱいあるのだけれども、どうもそういう時代も通り過ぎて、それも含めていけばな界全般を活気づけないといけないのかなと。ただし、もちろんあまり意味の無い慣習とかは改革しなくてはいけませんよ。どうもいけばなの色々な活動と流派の内部の活動とが相互関係にあることを無下に否定も出来なくなってきちゃったというのが・・。
下田さんにしかられるのかもしれないけれど、ちょっと考え始めています。そういうことをここで言っていいのかどうかわからないけど、美術そのものが衰退しています。現場にいますと着実に感じまして、とりわけ現代美術というのは弱くなっていて、その文化のあり方を、日本の文化をジリ押してこなかったというのもありますし、いろんな問題が絡んでいますけども、ただいけばな全般を活気づけるようなことを考えていかなくてはならない。ただ無下に今のいけばながいかんという言い方よりも全体の改革を積み重ねながら次の未来を思い浮かべていく必要がでてきたかなと。
それともう一つこれは生煮えの意見で申し訳ないのですが、やはり今回のこれは、前衛いけばな、造形いけばなの流れをある程度背負っている。で、最近はライブ的な傾向を見せている人も若手にいる。まあ若くも無いのだけれど。それも一つの面白い例で、中身としてはエンターテインメント性が強いもの、まあそれが良いか悪いかわかりませんがそういう動きがありますし、両方に絡んでいる人もいますから、それからまた、もういっぺん花をいけることの、いかすことの受容性というものを再発見しようという動きも出てきています。要するに今まで流れが一つにいっていたものが多様化し始めているのですよね。で、その全体を見直すにはいい機会かなと。それからさっき建築家の話も出ましたけれども、いけばなの装飾的な要素も考えていくとか、非常に多様なものが「失われた20年」を過ぎていっぱい出てきてしまったというのが現状ではないか。で、それを再整理して取り組んでいく必要がこれからは出てくるかな。だからこれはだめだ、という見方を少し緩めて、色んな可能性をいっぺん考えてみようかなという見方を僕はしています。これはまだ生煮えですが将来的には何かの役には立つかなという見方をしています。
◉長井 三頭谷さんは本当に言いたいことがもっとあると思うのですよね。オープニングパーティーの時に、一人燃えていたのですよ。今日はパーティーだからちょっと押さえてということでね。それでも言っていましたけれどね。一歩前に出ようよ、今がその時だよって。オーラが伝わってきましてね。
いけばな界には三つの宝があったなと、この会場で気がつきまして。そろそろまとめなくてはいけないので。でも、これだけは言っておきたい!ということはありますか?立っている方は結構きついと思いますので・・。
◉三頭谷 多分、伊藤さんが何か
◉伊藤 おかげさまで昨日の時点で入場者数2400、多分今朝の感じで言うと3000人は超えるのではないかな?と思います。それとチケットを買ってくださった方が思いの外、非常にございました。日に日にチケットが売れていくというのは、やっぱりバンカートを見た方がフェイスブックなどに上げてくださったり、お友達から聞いたりしてここに駆けつけてくださったりする方が多いのだなということを受付にいてひしひしと感じておりました。本当にもう嬉しいことだなって思っております。ありがとうございました。
◉日向 実は私は一日せいぜい100人位なのだろうと考えていました。とんでもない数字で、もう個人的に第2回目の事も考えているのですが・・。(笑)その前に、ある人から、まず会場側から断られるかもしれないよなんて話もあって。でも今回私たちは本当に別々の立場で、専任も誰もいなかったのですが、大塚君と伊藤さんね、この二人が本当によくやってくれて、それに超多忙な千羽先生、連絡とかなにやらやってくれてなんとかここに漕ぎ着けたなって。で、今日こんなにいい時間を持ってね、それぞれフィナーレに向かうのだけれども、是非第2回目に向けてつなげて行こうって思っております。
◉大塚 この会場を見たのが10数年前ですが、10年経ってやっとここにたどり着いたかなっていう思いでおります。でも今ですね、私の頭の中には二つ三つのプランがありまして、やはり現代いけばなってどうもママコ的に思われているところがあるのですけど、厳然たる日本文化だということをきちんと知らしめる。それと同時に古典もいけばなだし、いけばな界の中でこれはいけばなではないとか、逆に古典を否定するとか、そんな内ゲバみたいなことをしている場合じゃ無い。いけばな界全体が力を合わせて日本の貴重な文化であるということを外部に発信していかなくてはならない。
外国へって言うのも考えておりますが、具体的どうこういうことは今のところありませんが、2階をご覧になっていただくと分かるように、3階と全然違う空間ですよね。3階に加えて、こういう場所で立花や生花のエース、投げ入れ花や盛花のエースたちが力を合わせてやったらこれはもの凄い展覧会になるんじゃないかなって、そんな風に漠然と思っております。ここにたどり着くまでに10年掛かりました。この先10年あったら出来るんじゃ無いのかなって。また勘違いですね。(笑)でもきっとどなたか助けてくださって、またこの勘違いを実現させてくださったら嬉しいなって思っております。
◉長井 えー、今日は司会をやらせていただきましてありがとうございます。何故私が司会をやらされたかっていうと、実は会議にあまり出なかったからなのですね。その罰的な感じで立たされているわけで(笑)そんなわけで光るものをこの会場で三つ発見させていただきました。その一つは下田先生。(拍手)下田先生は戦後いけばなの歴史そのものでお宝です。で、先生は作品集を発行されましてね、ここに綴られているのはいけばな界の歴史そのものなのですね。道に迷ったら下田先生のご本を見ればその歴史がわかるっていう、下田先生と本が宝ですね。(拍手)いけばな界に尊敬する方がいるっていうのは本当に幸せですね。あと、いけばなを育ててくれたというのは評論家なのですよ。喧嘩しやすい。でも今は評論家っていうのはいなくなってしまって、だから三頭谷先生、お宝です。(拍手)あともうひとつ、西川さん。メディアとの関わりがもう本当に不足しているのですが、西川さんが頑張ってくれているんですよねー。いけばな界に西川さんがいなかったらもう大変だってくらいに。(拍手)なにか一言。
◉西川 えー、長い間いけばなと関わっていますけれども、歴史はここにいる人たちが仰ってくれました。えー私は長い間共有してきて、その歩みを日本女性新聞という情報紙を通して伝えてきました。これからも迷いながらも新しい世代の流れのいけばなを願っています。やはりいけばなは空間との関わりです。植物との関わりです。命ある植物との関わりをこれからもさらに大事にしていかなくてはなりません。それを切に願って第二回の新いけばな主義を期待しております。どうぞ皆さんご支持ください。(拍手)
◉長井 えー、思い起こせば昭和二年に草月流が、創流しましてそのときから20年ですかね。主婦の友が『蒼風・豊雲』という二人展、金字塔となる展覧会をいたしましてね。その時のキーワードが「なんだ、これがいけばな?」
そういうことばです。図らずも今日の話の中でもそんな話が出ました。それがいつか、それがいけばな「か」?
じゃなくて、これがいけばな「だ」!という作品が、あるいは作家が生まれることが、光というか希望になると思うのですが、そこの増野(光晴)さん、それから日向(雄一郎)さん、まあ出品はしませんでしたけれど、こういう展覧会に触れて我々がたどってきた道、先輩、作品に刺激されて、ようし!という創作の意欲を燃やしたパワーを、こういう機会に、これは見えない光だけれども、そういう作家が一人でも二人でも育ってくれればこの展覧会にも意義があると思うのですよね。
そういう意味で三頭谷さんにお願いしたいのは、我々じゃなくて、まず、三頭谷さんにお願いしたいのは若い世代の評論を手厳しく甘やかさないでやっていただきたい。(笑)我々もやられてきたのでね。(笑)
最後に、次回展という話が聞こえて参りましたのでここで反応を聞かなきゃいけませんので、私が「次回展やるぞー」っていったら皆さんが「おー」とか言ってくれれば確認になりますので、(笑)それで終わりになります。いいですか?
次回展、新いけばな主義やるぞー!
会場 「おー!」
◉長井 ありがとうございました。(拍手)
『新いけばな主義』シンポジウム
2017年7月2日(日)14:00~15:40 BankART Studio NYK 2階ライブラリーにて